ツィター(zither)属に分類されるカンテレはフィンランドに古くから伝わる撥弦楽器で、繊細かつ柔らかな音色がいつまでも鳴り響く、残響豊かな楽器です。
フィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ』の中では、主人公ヴァイナモイネンがカンテレを創り出し、最後にカンテレを残して去ることから民族の象徴としての役割も強く担い、1800年代後半の民族ロマン主義時代には、多くの芸術家たちの創作意欲を掻き立てました。こんにちではフィンランドの民族楽器としての地位を確立しています。
カンテレの起源については明確になっていません。
現存するフィンランド最古の5弦カンテレは、1699年に製作されたものですが、その起源は2000~3000年も前に遡るとも言われています。1500年代に著された文献に、カンテレに関する記述が紹介されており、1700年代には詳細な情報がまとめられています。
また、バルト海沿岸諸国を中心に類似楽器も多く存在しています。
ロシアのグースリ、エストニアのカンネル、ラトビアのコォクレ、リトアニアのカンクレス、といったようにそれぞれの地でそれぞれの名称で呼ばれ、楽器の形態や演奏法なども、それぞれの発展を遂げています。
フィンランドの古いなぞなぞに次のようなものがあります。
答えは「カンテレ」。
ヴァイナモイネンが白樺から創りだした楽器は、
やがて詩歌(ルノラウル)とともに各家系で伝統的に伝えられるようになり、
何かから守るかのように家の壁に飾られ、
膝の上でその妙音を響かせました。
そんなフィンランドのカンテレは、歴史の中でどのような変化・発展を遂げてきたのしょうか。
コヴェロカンテレ(Koverokantele;彫型カンテレ)
1800年より以前のカンテレは、1片(または2片)の厚い木片をくりぬくようにして作られていました。1片で作られたものは、表面を平らにし、下面、側面から彫られ、2片で作られたものは、まず上面から彫り進められた1片に、平らなもう1片を組み合わせて作られました。
弦は片側を木で作られたネジのようなチューニングペグ(糸巻き)にとりつけ、もう片側を串状の金属板で固定していました。初期のカンテレの弦は、馬のしっぽの毛、もしくはガット(動物の腸)が使われていました。その後、真鍮やスチールといった金属弦が使われるようになります。
弦の数は5弦から徐々に増え、その数は15弦にまで広がります。
楽器の発展に伴いコヴェロカンテレはだんだんと演奏される機会が減っていきますが、ペルホンヨキラークソ地域では1800年代以降も演奏され続けていました。コヴェロカンテレに変わって台頭してきたのが箱型カンテレです。
ラーティッコカンテレ(Laatikkokantele;箱型カンテレ)
1800年代初め頃より、板状の木片を組み立てて作られる箱型カンテレが台頭してきます。初めにこの箱型カンテレの作成、普及に努めたのは民族叙事詩「カレヴァラ」を編纂したエリアス・リョンロット(Elias Lönnrot)でした。その後、箱型カンテレはさまざまな人の手により発展し、弦数も20本以上に増えていきます。
弦数の増加に伴い、徐々に右手でメロディ、左手で和音を弾くという形が定番化、5~15弦の小型カンテレとは変わって長い弦(つまり低い音の弦)を手前にして演奏されるようになりました。
また、以前は1本の長い金属板で全ての弦を片側で固定していましたが、発展の過程で両側ともひとつひとつのピンで固定されるようになります。これにより真っ直ぐに響いていたその音色は、弧を描くような響きへと変化しました。少し音程を揺らがせながら響くこの音色は、現在のカンテレの特徴の一つでもあります。
コンサートカンテレ(Konserttikantele)
1920年代、Paul Salminen(パウル・サルミネン)の開発により、レバーをチェンジすることにより転調が可能なクロマティック機能が追加されます。仕組みはグランドハープから着想を得たものでした。この頃より弦の数は36本にまで増えていきました。現在のコンサートカンテレは38~39弦が一般的です。
また、消音板(ミュート板)がとりつけられるようになったものこの頃から。
それまでは、残響を思う存分響かせる開放的な演奏が主流でしたが、クロマティック機能が追加されることによって生じる不協和音を回避するため板や指、腕を使っての消音テクニックも演奏に必要とされるようになってきたのです。
1940年代、楽器販売を行うファッツェル・ムシーッキ(Fazer-musiikki)社が、箱型カンテレの販売を始めます。サルミネンがデザインしたクロマティック機能のついていないカンテレは、「コティカンテレ(Kotikantele)」という名称で売り出され、いつしかその名が箱型カンテレの総称となりました。
一方、独特の演奏スタイルを確立していった地域もあります。ハーパヴェシ(Haapavesi)、ペルホンヨキラークソ(Perhonjokilaakso)、サーリヤルヴィ(Saarijärvi)での進化はその地域独自のものでした。
ハーパヴェシ(北部ポホヤンマー地方)では、音を出さない弦を押さえ、周囲の弦すべてをかき鳴らすように演奏するミュート奏法(sulkusointu/スルクソイントゥ)が生み出されました。
ペルホンヨキラークソ地域(中部ポホヤンマーを流れるペルホンヨキ川谷沿いの地域)ではコヴェロカンテレを他地域よりも長く演奏していたことから、箱型カンテレを弾く際も短い弦、つまり高音の弦を手前にして演奏されました。
また、ペルホンヨキラークソ内に位置するサーリヤルヴィ(フィンランド中部)では、演奏時に小さな棒状の木を用いて演奏することから、その演奏方法はスティックカンテレ(奏法)と呼ばれています。
2000年代に入ると、カンテレ製作者たちの開発によりマイクを内臓したエレクトリックカンテレが作られるようになりました。これにより、他の楽器との競演が可能な「バンド楽器」としても活動の幅を広げています。
上述の「楽器の歴史と発展(概要)」にてコンサートカンテレについても触れていますが、ここでは更に踏み込んでその誕生~発展の過程をみていきます。
準備中
フィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ(Kalevala)』は1800年代初頭、医師であり民俗学者であったエリアス・リョンルート(Elias Lönnrot)が、フィンランド各地に伝えられている詩歌を採取し、一貫性のある物語としてまとめたもの。
この時代、口伝のルノラウルは既に忘れ去られたものとなっており、リョンルートはこれら各地に散らばるエピソードを、創作と想像を織り交ぜ、ひとつの物語として完成させました。
自分たちの言葉で書かれた完成度の高い神話的物語の存在は、スウェーデン、ロシアと大国に統治されてきた当時のフィンランド人の民族意識を高め、多くの影響を与えました。フィンランドを代表する画家アクセリ・ガッレンカッレラ(Akseli Gallen-Kallela)は『カレヴァラ』に大きな刺激を受け、「今こそ、われらの小国フィンランドを真に再生しなければならない。」と日記に記しています。音楽の分野ではジャン・シベリウス(Jean Sibelius)も『カレヴァラ』を題材とした多くの作品を残しました。
『カレヴァラ』は天地創造から始まり、主人公である老賢者ヴァイナモイネンを中心としたカレヴァラ族と、魔女ロウヒを中心としたポホヨラ族とのサンポ(幸福を呼び寄せるひき臼)をめぐる戦いを描き、キリストと思われる男児の誕生をもって終わりをむかえます。
『カレヴァラ』と は、”カレヴァの国”という意味で、カレヴァは、詩の中に出てくる主人公らの祖先の名です。
1835年、32章12,078の詩で成る『古カレヴァラ(原題:カレヴァラ、もしくは、カレリアの古い詩;Kalevala taikka Vanhoja Karjalan Runoja)』が刊行されます。その後に採取した詩を追加し、50章22,795の詩から成る『新カレヴァラ(Uusi Kalevala) 』が刊行されたのは1849年のこと。
『古カレヴァラ』に比べ『新カレヴァラ』は、ストーリーに厚みが加えられたとともに、より一貫した物語として完成させるため、リョンルートの創作も多く加えられました。『新カレヴァラ』の最終章に追加されたキリストと思われる男児の誕生は、その代表例としてあげることができるでしょう。
『カレヴァラ』は”フィンランドに伝わる古い伝統神話”であるとともに、”それを基に新たに創られた物語”でもあるのです。
この『カレヴァラ』の中でヴァイナモイネンによって創り出されたカンテレは、フィンランドの民族意識の象徴として描かれています。
それでは、『カレヴァラ』の中でカンテレがどうやって創り出されたのか、一般的に知られている『新カレヴァラ』の中からご紹介します。
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『新カレヴァラ』の中では、2種類のカンテレがヴァイナモイネンの手によって創られ、奏でられます。
最初に登場するカンテレは、ヴァイナモイネンの手によって魚(巨大なカマス)の顎骨を用いてつくられたものでした。
魚のカンテレ(第40~第41章)
サンポの奪回を目指し、船でポホヨラを目指すヴァイナモイネン一同。途中、船は巨大なカマスの背に座礁します。レンミンカイネン、イルマリネンが攻撃を試みるも倒せず、終にはヴァイナモイネンが自ら刀をふるい、カマスを倒します。倒したカマスを調理し盛大な宴を催す中、ヴァイナモイネンは残ったカマスの骨から楽器カンテレを創りだします。しかし、その場にいる誰もがその楽器を弾くことはできませんでした。ヴァイナモイネンはまじないでポホヨラにカンテレを送ってみましたが、ポホヨラでも美しい音を出すことは出来ませんでした。カンテレは再びヴァイナモイネンの元に送られ、彼が奏で始めるとその美しい音色にあらゆる生物、神々、月や太陽までもがその音に聞きほれ、涙を流しました。ヴァイナモイネン自身も涙を流し、その涙は海に沈んで真珠となりました。
しかしその後サンポを巡っての戦いの中、このカンテレは海の底に沈んでしまいます。
戦いが終わった後、自身の声として新たなカンテレをヴァイナモイネンは求め、白樺のカンテレが創り出されます。
白樺のカンテレ(第44章)
戦争が終わり、カレヴァの国に平和がもたらされました。ヴァイナモイネンは湖に沈んだカンテレを探そうと、イルマリネンに鉄の熊手を作ってもらいますが、見つかりません。帰り道、草原で悲しみにくれる白樺の木と出会います。白樺は、風雨に曝されたままただじっと立ち、いずれは伐採されてしまう自分の運命を嘆いていたのです。ヴァイナモイネンは、伐採されても人々の喜びになるように、と白樺からカンテレを作ることを考え、胴体を作ります。草原で歌っていた乙女に髪をもらって弦にし、樫の木で鳴いていたホトトギスの口からこぼれた金と銀をつかって釘を作り、弦を胴体に固定します。
新たに創り出されたカンテレをヴァイナモイネンが奏でると、ありとあらゆる生物がその音色の耳を澄ませます。
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その後、ポホヨラの魔女ロウヒの企みで月と太陽が岩戸に隠されてしまいます。真っ暗になってしまった世界でしたが、ヴァイナモイネン、イルマリネン、レンミンカイネンの働きかけにより助け出され、再び世界は明るくなりました。ロウヒは去り、今度こそ平和が訪れたのです。
ヴァイナモイネンの旅立ち(第50章)
マルヤッタという清廉な処女が、森の中でベリーを口に入れたことにより、お腹に子どもを宿します。やがて生まれた父親のいないその子どもをどうするのか、賢者ヴァイナモイネンに判断が委ねられます。ヴァイナモイネンは「ベリーで孕んだのであればその子は人間ではない」とし、子どもを殺すよう言います。しかし、生後半年の子どもが口を開きヴァイナモイネンの過去の罪を曝し、裁かれるべきだと説きます。
子どもは新たなカレリアの王として皆から祝福を受けます。彼の言葉に負けたヴァイナモイネンは自らの時代は終わったと悟り、旅立つ決心をします。
新しい神(キリストと思われる男児)の誕生により、古い神(ヴァイナモイネン;自然信仰に基づく伝統神)は去ることになるのです。
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リョンルートは、ヴァイナモイネンが旅立つ際にカンテレをスオミの民へと遺すという記述を意図的に加えることにより、カンテレの存在をより民族の象徴として強く表現することに成功しました。
そしてリョンルートの意図したとおり、カンテレは民族の象徴として民族ロマン主義の芸術家たちの手により絵画、音楽、詩や文学といった、ありとあらゆる場に描かれることになるのです。
出典:『新カレワラ(Uusi Kalevala)』(1849年)
訳:Mi/TERESIANKANTELE
フィンランドの民族楽器であるカンテレですが、バルト海沿岸の近隣の地域にも、同様の類似楽器が存在しています。
カンテレとルーツを同じとする楽器たちも、それぞれの地域の民族文化の中で、それぞれの発展を遂げてきました。
※類似楽器の分類や地図はKanteleen kielinプロジェクト(*1)の成果を参考に作成致しています。
*1)Kanteleen kielinプロジェクト:
カンテレ奏者ティモ・ヴァーナネン(Timo Väänänen)、カンテレミュージアム館長で民族音楽研究家のカリ・ダールブロム(Kari Dahlblom)、ジャーナリストレーナ・ハッキネン(Leena Häkkinen)、音楽プロデューサーのマッティ・コンティオ(Matti Kontio)によるカンテレならびに、カンテレに類似する楽器の調査研究プロジェクト。各地を訪れ、その地に伝わり、それぞれの形へと発展してきた”カンテレ”たちの音色と、現地の人々の声を取材。その成果は、フィンランド国営放送局YLEのラジオ番組で17回のシリーズとして紹介された。(Kanteleen kielinプロジェクトHP[フィンランド語/英語])
[kantele]という単語の語源は、インド・ヨーロッパ語族の祖語kan(「声」、「歌う」の意)に由来すると言われています。これはカンテレと同じルーツの楽器であるロシアのグースリ、リトアニアのカンクレス、ラトビアのクァクレ等も同様で、これらの語彙は共通の起源にさかのぼることができ、kanから派生したkanklas(「鳴る」、「歌う」)が、それぞれの地域の言葉へと借用されていきました。
スラブ語派の祖語ではgodsli(「言葉」、「弦」の複数形)へと変化し、最終的にロシアに残る楽器グースリ(gusli)となっています。
一方、バルト語派の祖語ではkantlis(「言葉」、「弦」の複数形)へと変化していき、リトアニアのカンクレス(kankle)、ラトビアのクァクレ(kuõkle)と繋がっていきます。
バルト語派の祖語kantlisはその後、フィンランド祖語へと借用されkantle(「言葉」、「弦」の単数形)という形になりました。
一般的に「カンテレ(kantele)」と称されている楽器名ですが、実際にはフィンランド国内でも「カンネル(kannel)」と言うことが多くあり、特に東部のサヴォ地方、ロシア国境沿いのカレリア地方では「カンネル」の方が多く使われています。これは、文法上の子音活用の変化(フィンランド語では-nt-という子音の組合せは-nn-に変化する)というだけでなく、楽器を示す単語がフィンランド語内で2つのルートを経てきたことを表しています。
言語学者/歴史家であるH.Gポルタン(Henrik Gabriel Porthan)が1760~1770年代に著した文献内でkandeleと記載していることから、kantle-kandele-kanteleといった一つの変化がなされてきたことが伺えます。
他方、カレリア地域周辺ではkantleがそのままkannelと変化したと考えられます。
それぞれの地域の楽器名語彙の起源を分岐図で表すとこのようになります。
こうしてみると、リトアニアのカンクレスの複数形であるkañklèsが最も古い語形をとどめていることが分かります。
細長い四角い木の胴体に、1本の(あるいは弦をより合わせて1まとめにした)弦を張った「ヴィルシカンテレ(Virsikantele)」(*1)と呼ばれる楽器がスカンジナビアに古くから伝わっていますが、これは「カンテレ」のように指で弾くのではなくヴァイオリンのように弓を使って演奏します。同様に「ヨウヒッコ(jouhikko)」(*2)と呼ばれる楽器も弓を用いて演奏しますが、もともとは「ヨウヒカンテレ(jouhikantele)」と呼ばれていました。これらは、指で直接はじいて弾くこんにちの「カンテレ」以外の弦楽器にもkanteleという語彙が用いられていたことを意味しています。
フィンランド祖語kantleが意味するのは、楽器そのものではなく「弦」でした。語彙の変化とともに、「弦」を表していた単語は「弦楽器」を表すようになり、最終的に現在私たちが知る「カンテレ」という楽器を指すようになったのです。
※各言語における楽器名の起源分岐図は、アンニッキ・スモランデル-ハウヴィネンの研究成果を基に作成しています。
*1)ヴィルシカンテレ(Virsikantele):
スウェーデン、ノルウェーを中心にスカンジナビアに古くから伝わる楽器。教会や学校で音楽を簡素化し、讃美歌のような神聖音楽を奏でるために考案された。スカンジナビア語や英語を基に「サーモディコン」と訳される。[参考画像]
*2)ヨウヒッコ(jouhikko):
フィンランド、カレリアに伝わる馬の尻尾の毛を用いた弦が張られた楽器。もともとは西洋から入ってきたと言われている。[参考画像]
音楽史を語る際には、当然、その地の歴史や文化発展が大きく関わってきます。フィンランドも同様で、国としての歴史は浅くとも、スウェーデン、ロシアの大国統治下にあった頃より、音楽の発展は行われていました。また、『カレヴァラ』を代表とする古くからフィンランドに伝わる詩歌=ルノラウルは、後のフィンランド音楽に影響を与え続けています。
フィンランド音楽の流れを、それぞれのジャンルが発展をとげた年代ごとに並べてみましょう。
・古代~ 民族音楽 - ルノラウル(詩歌)
・1200年頃~ 教会音楽 - 賛美歌、オルガン音楽
・1600年頃~ 民俗音楽 - ペリマンニ楽師とダンス音楽
・1850年頃~ 芸術音楽 - 民族ロマン主義と職業作曲家たち
・1900年代~ 近年の音楽 - フィンランドタンゴ、イスケルマ(フィンランドの歌謡曲)、ポップス、ロック、へヴィメタル等
民族音楽 - ルノラウル(詩歌)
ルノラウルは古くから歌い継がれてきた民俗詩歌で、多くの百姓や木こり、漁師などにより作られ、全て歌の形態で残っています。
ルノラウルの起源は、寒い冬に暖炉の前に集まって人々が語り合った話から、面白いものや印象的なものが口承で語り継がれてきたことに始まり、やがて節をつけて語られるようになります。
3~5音程の単純なメロディをつけ、さらに元のメロディを少しずつ即興的に変化させながら歌が発展していきました。歌うときには、二人が向かい合い、右手と右手、左手と左手で握り合った手(クロスした状態)を振ったり、体を揺らしたりしていたと言われています。
その内容は英雄物語から婚礼歌、魔術やおまじない、諺、賞賛や戒めなど、多岐にわたります。
伝統詩歌の歌い手たちから話を聞き、詩や歌を記録として残し、後にその韻律を楽譜にも起こしたのが医師であり植物学者、民俗学者であったエリアス・リョンルート(Elias Lönnrot)です。彼は、フィンランド東部からロシアにまたがるカレリア地方を巡り、実に多くのルノラウルを採取しました。
それらをまとめ、世に出した作品として『フィンランドの神、ヴァイナモイネン(De Väinämöine priscorum Fennorum numine, 1827)』、『カンテレ、もしくは、フィンランド国民の新旧の詩と歌(Kantele taikka Suomen kansan sekä wanhoja että nykyisempiä lauluja, 1829-31)』、民族叙事詩『カレヴァラ(Kalevala, 1835)』、民俗歌謡選集『カンテレタル(Kanteletar, 1840)』などがあります。
なかでも『カレヴァラ』は、それまで大国に統治され続けたフィンランド人に「自分たちの言葉(フィンランド語)で語り継がれた長大な民族神話が存在する」ことを示し、後に花開く民族ロマン主義時代の芸術家たちに多大な影響を与えました。
ルノラウルは詩と節の区分けがない無節形式で、8音節に4脚の強弱色の韻律が定型とされています。4拍または5拍のリズム、メロディは5音程で表される独特な韻律は、詩歌の中でも代表的な『カレヴァラ』の名を冠し「カレヴァラ調韻律」呼ばれています。『カレヴァラ』を朗唱する際は、物語が進むにつれその旋律は少しずつ形を変えていく様式がとられていました。
5音でなるルノラウルは、『カレヴァラ』の中の主人公 老賢者ヴァイナモイネンの演奏とも相成って、5弦カンテレで奏でる代表的なメロディとして知られています。
このような「カレヴァラ調韻律」の伝統詩歌はフィンランド全土で詠われていましたが、スウェーデンを介しヨーロッパからの影響を受けた西部地域では徐々に衰退し、リョンルートが採取の旅に出たときには既に、東部地域に残るのみでした。
ルノラウルに代わり西部地域を中心に発展してきたのが、宗教改革の影響でもたらされた教会音楽と、後に民俗音楽と称されることになる、大衆の間で流行したペリマンニ楽師たちを中心とするダンス音楽です。
教会音楽 - 賛美歌、オルガン音楽
1155年、スウェーデンからキリスト教が伝えられ、トゥルクの町に大聖堂聖歌学校が誕生します。
1582年、ヤコブ・フィンノ(Jacobus Finno;Jaakko Finno;Jaakko Suomalainen)により聖歌集ピエ・カンツィオーネス(Piae cantiones)が編纂されます。原題は「古い時代の司教の教会および学校のための聖歌」で、スウェーデンとフィンランドで歌われていた聖歌74曲が収められており、その半数はドイツやフランス等西ヨーロッパを起源とする楽曲ですが、残り半数近くは他国に例を見ない楽曲であるため、スウェーデン、フィンランドが起源だと考えられています。また、教会の聖歌だけでなく、学校曲が収められている点で同年代に他ヨーロッパ諸国で編纂された歌曲集とは性質の異なるものとして、貴重な資料となっています。
1520年頃までフィンランドではカトリックが主流でしたが、16世紀中頃の宗教改革とともにルーテル派の流れが押し寄せ、教会音楽はコラールが中心となります。また、他国ではカトリックとの結びつきが強いオルガン音楽がフィンランドではルーテル派にも浸透し、コラールとオルガンがフィンランド教会音楽の中心となっていきます。こうしたオルガン文化はトゥルクを中心に発展していきました。
フィンランドの教会では、礼拝で歌われる賛美歌のほかに多くの民謡的な賛美歌も歌われてきました。これらは民族ロマン主義時代以降の職業作曲家たちの手による編曲、新たな作曲によって、より豊かな大衆賛美歌へと変遷していきます。
また、フィンランドのオルガン音楽は、あくまでもルーテル派の礼拝と結びついた音楽でしたが、1882年ヘルシンキにオルガニスト養成学校が設立されると、演奏技術の向上に伴い、職業作曲家たちによって作曲がなされ、芸術音楽へと発展していくようになります。
民俗音楽 - ペリマンニ楽師とダンス音楽
ペリマンニ(Pelimanni)とは、農民の暮らしの中でフィドル(クラシック以外のジャンルで演奏されるヴァイオリンを指す)やカンテレ、アコーディオン、のこぎりなどを演奏する音楽家の総称。世襲制で、楽譜を用いずに耳と修練とで音楽を継承していきます。
スウェーデンからやってきた音楽旅団がフィンランドの農村部へ定着し、音楽を通して地域に根付いていったのが始まりです。ペリマンニたちの影響を受け、ポルカやワルツ、マーチ、タンゴ、ポロネーズ、マズルカ、ソッティッシュ、イェンカ、フンッパなどの多種多様なダンス音楽が急速に普及していきます。
楽譜にとらわれない即興演奏が、フィンランドの新たな民俗音楽として台頭していきました。
しかし、活気に満ち溢れた大衆音楽の場において、元来繊細なカンテレの音色はフィドルやアコーディオンの陰に隠れるようになります。
一部のペリマンニ家系の中で受け継がれていったものの、カンテレの存在は徐々に後退していくことになりました。
そんな中、『カレヴァラ』の登場により自国文化へと目を向け始めたフィンランド人たちは、作品中”民族の象徴”として描かれたカンテレに使命感にも似た大きな期待と注目を寄せはじめます。
この時代に活動したクレータ・ハーパサロ(Kreeta Haapasalo)は、フィンランドで初の職業カンテレ奏者。その姿は絵画の中にも多く残されています。ハーパサロはペリマンニ音楽が盛んなフィンランド北西部の町カウスティネン近くの村出身で、ペルホンヨキラークソスタイル(高音弦を手前にして弾くスタイル)で演奏していました。
ハーパサロが活躍する時代は、民族ロマン主義により様々な芸術文化が花開こうとしている時期でした。ドイツ人の作曲家フレドリック・パシウス(Fredrik Pacius)が音楽を、作家サカリ・トペリウス(Sakari Topelius;Zachris Topelius)が台本を手がけたオペラ「国王カール王の生還」はフィンランドの歴史に関する内容で、1852年の初演は伝説的な成功を収めました。翌年、このオペラにカンテレを用いることが提案され、その大役にハーパサロが抜擢されます。彼女の演奏は、フィンランド民族の伝統の象徴であり、新たなフィンランド芸術の可能性を示唆するものでもあったのです。
やがて民族ロマン主義の最盛期とも言える1890年頃より、『カレヴァラ』と民族音楽に影響を受けた職業作曲家たちによる芸術音楽が華々しく社交界を彩るようになります。
芸術音楽 - 民族ロマン主義と職業作曲家たち
”フィンランド音楽の父”と称されるドイツ人作曲家フレドリック・パシウスを音楽教師としてむかえた後、フィンランドでは芸術音楽の分野が飛躍的に発展していきます。
1882年は、マルティン・ヴェゲリウス(Martin Wegelius)によるヘルシンキ音楽院(現:シベリウスアカデミー)の創設、ロベルト・カヤヌス(Robert Kajanus)によるヘルシンキオーケストラ協会の設立と、フィンランド芸術音楽の基盤整備がなされた年で、フィンランド音楽史上重要な年とされています。
ヴェゲリウスとカヤヌスは、それぞれ自らがフィンランド音楽界の中心となることを望んでいましたが、若き才能ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)の前に、彼こそがフィンランド作曲界の第一人者であることを認めます。カヤヌスはシベリウスの音楽の最大の理解者であり彼の作品の指揮を多くつとめました。また、ヴェゲリウスは設立した音楽院で、シベリウスを始めとする優れた作曲家を育て上げています。
1900年代に入るとフィンランド芸術音楽の作曲界も黄金期を迎えます。かねてからの民族ロマン主義の流れと、ロシアからの圧政が国民の愛国心を一層強いものにしていました。1899年に開催された年金基金のためのイベントとして、ヘルシンキのスウェーデン劇場で歴史劇「歴史的情景」が上演されます。シベリウスが音楽を手がけた本作品の最終場面「フィンランドの目覚め」の劇中曲は、人々の心を鼓舞し、フィンランドを独立へと推し進める象徴的な曲として絶賛を浴びました。愛国心をかき立てる曲としてロシアから演奏を禁じられるまでにいたったこの曲は、後に独立した交響詩「フィンランディア」として、シベリウスの作品の中で最も有名な曲として知られるようになります。
一方、この時代はシベリウスの影に隠れることになった多くの作曲家たちにとっては「灰色の時代」と呼ばれていました。
国際的に注目を浴びる者は少なかったものの、大衆的な人気を博したオスカル・メリカント(Oskar Merikanto)、幅広い作品を手がけたエルッキ・メラルティン(Erkki Melartin)、ピアノ奏者としても名を馳せたセリム・パルムグレン(Selim Palmgren)、本格的なフィンランド語系作曲家の興隆を支えたトイヴォ・クーラ(Toivo Kuula)やレーヴィ・マデトヤ(Leevi Madetoja)、歌曲王ウルヨ・キルピネン(Yrjö Kilpinen)など、実に多彩な才能がこの時代に集中しています。
その後、フィンランドの独立(1917年)とその後の内戦がもたらした国内の大変革に沿うように、音楽界にも伝統的調性音楽から離れたモダニズムが台頭してきます。その中核をなしたのはアーッレ・メリカント(Aarre Merikanto)、ヴァイノ・ライティオ(Väinö Raitio)、ウーノ・クラミ(Uuno Klami)等でしょう。
第二次世界大戦中は、フィンランド芸術音楽の発展にしばしの休止を与えます。フィンランドでは冬戦争(1939~1940)および冬戦争で失った領土を取り戻そうとした継続戦争(1941~1944)とで国土が戦火に包まれ、音楽家や作曲家の多くは戦場の慰問団として活動をしていました。
戦後、音楽界には伝統音楽の復興を目指したエルッキ・アアルトネン(Erkki Aaltonen)、タウノ・ピュルッカネン(Tauno Pylkkänen)、アハティ・ソンニネン(Ahti Sonninen)、エイナル・エングルンド(Einar Englund)らが注目を浴びます。
また、ロマン主義時代が到来すると、十二音技法をフィンランドで最初に用いたエリック・ベルイマン(Erik Bergman)が戦後モダニズムの台頭として大きな影響を与えます。
エイノ・ユハニ・ラウタヴァーラ(Eino-Juhani Rautavaara)、ヨーナス・コッコネン(Joonas Kokkonen)、アウリス・サッリネン(Aulis Sallinen)といったこの頃の作曲家たちは、いちどは十二音技法を採用した曲を手がけています。また、パーヴォ・ヘイニネン(Paavo Heininen)は多くの作曲家が十二音技法を捨てた際も十二音技法の基本を貫き、妥協を知らぬモダニストとも言われました。
再び伝統派に回帰したのが ペール・ヘンリク・ノルドグレン(Pehr Henrik Nordgren)ですが、モダニズムを通過した後の「伝統主義」は、より革新的でこれまでの「伝統派」の概念を広げました。
こんにち活躍するエーロ・ハメーンニエミ(Eero Hämeenniemi)、カイヤ・サーリアホ(Kaija Saariaho)、マグヌス・リンドベルイ(Magnus Lindberg)、ヨウニ・カイパイネン(Jouni Kaipainen)、エサ=ペッカ・サロネン(Esa-Pekka Salonen)、オッリ・コルテカンガス(Olli Kortekangas)といったフィンランド人作曲家の多くは、1977年に創立された「耳を開け!(Korvat auki yhdistys)」グループのメンバーで、その大半がヘイニネンの教え子でもあることから、ヘイニネン流派とも呼ばれています。
近年の音楽 - フィンランドタンゴ、イスケルマ、ポップス、ロック、へヴィメタル等
1900年代初頭よりフィンランドにもたらされたタンゴは、様々な国の音楽とフィンランド古来の歌の伝統がミックスされ、「フィンランド・タンゴ」とも呼ばれる独特の哀愁を満ちた音楽へと発展していきました。物悲しくも美しい旋律に語りかけるかのような歌詞が圧倒的な人気を呼び、国民音楽と称されるほど親しまれています。
また、イスケルマと呼ばれる大衆歌謡曲は、日本の演歌やムード歌謡を思わせる懐かしい響きが特徴的で、国内では今なお根強い人気を誇っています。
ポップスやジャズ、ロックといった音楽が世界各地より入ってきて、大衆的な人気を占めているのは日本や他国とも同様ですが、近年フィンランドではハードロックやへヴィメタルバンドが盛んに活動し、国内外から高い支持を得ています。これは単なるラウドミュージックとしてではなく、完成度の高い音楽性が人気を呼んでいるようです。
カレヴァラ調韻律やサーミの伝統音楽ヨイク、伝統楽器を用いたトラディッショナルバンドの活躍も注目を浴びています。
ここまで、フィンランド音楽史の概要をジャンルごとに見てきました。
では、現在カンテレではどのような音楽が演奏されているのでしょうか?
2年に一度フィンランドで開催されるカンテレコンクールでは、その出場部門を3つのジャンルに分類しています。
・民族音楽(Kansanmusiikki/Folk music)
・芸術音楽(Taidemusiikki/Art music)
・その他の音楽(Muu musiikki/Other music)
これに当てはめてみると、ルノラウルを基調とした民族音楽、ペリマンニのダンス音楽は「民族音楽」部門に、いわゆるクラシック音楽とされる作曲家たちの楽曲と、一部の教会音楽が「芸術音楽」部門に、大衆的に親しまれているポピュラー音楽類や自身のオリジナル作品等が「その他の音楽」の部門となります。
コンクール出場者の傾向でいうと、近年では「その他の音楽」部門への参加が増えているようです。これは、音楽を学ぶ過程で作曲が必須となってくるフィンランドの音楽教育の影響も受けているのでしょう、オリジナル楽曲を演奏する若者が多くなっています。即興演奏を主体とした柔軟な演奏スタイルが魅力の「民族音楽」は、安定した参加人数を保っています。「芸術音楽」部門は、全盛期ともいえる1980~90年代以降、やや減少傾向にあります。これは、難解な現代曲の台頭により求められる演奏技術が上がってきていることや、職業奏者の飽和状態が生む仕事不足などから、奏者を目指す道が狭まれてきていることが要因と考えられます。
「About Kantele-カンテレの仕組み」で紹介するように、カンテレは弦数、形状、奏法も実に様々な多様性のある楽器です。演奏される楽曲も「こうでなければいけない」という縛りはありません。ようは自由に、自分の弾きたい楽曲を思う存分に響かせれば良いのです。
様々な可能性を秘めたカンテレという楽器が、日本で新たな音楽スタイルを生み出す-そんなことも起こりうるかもしれませんね。
なお、今回は触れていませんが北部ラップランドに居住するサーミ人の伝統音楽(主にヨイクを代表とする歌)も、重要なフィンランド民族音楽のひとつ。ヨーロッパで最古の音楽のひとつとも言われています。
2018/07/05更新
カンテレ史を年表にまとめてみました。
フィンランド史や時代ごとのカンテレ関係者、フィンランド音楽家たちの情報も随時追記していきます。